山崎 泰広(やまざきやすひろ)
1960年(昭和35年)1月28日東京に生まれる。日本で義務教育を終了後、77年より米国の高校に留学。79年2月、転落事故により脊髄損傷、下半身麻痺となる(右T10,左T9)。
リハビリ後、同年9月に高校2年に復学。81年に卒業しボストン・カレッジ経営学部に入学。マーケティングとコンピュータ科学を専攻し、85年卒業。卒業後に帰国し食品会社入社。コンピューター・アナリストとして勤務。
90年独立、身体障害者関連機器の輸入販売とコンピューターコンサルティングを二本の柱に、株式会社アクセスインターナショナル設立。米国最大手の車いすメーカーであるクイッキーデザイン社(現サンライズメディカル社)の日本総代理店として活動。日本人仕様のモデルの開発とそれまで高価だった輸入車いすを低価格で販売することにより、日本で初めて成功した輸入車いす販売の会社となる。その後、契約企業を増やし、車いすとシーティング関連機器を中心に多くの身障者関連機器メーカーの日本総代理店として活動している 。
93年から日本総代理店となったシーティング・システムの世界的なトップメーカー、ジェイメディカル社(現サンライズメディカル社)製品の日本展開のために受けたトレーニングをきっかけに、毎年欧米の講習会に参加し、シーティング・スペシャリストとして車いすを使用する身障者と高齢者の座位に関するコンサルティングを行い、正しい車いす上の座位による褥瘡と変形の防止、高齢者の離床に努めている。シーティングの考え方と技術の普及のために、日本全国で開催しているシーティング・セミナーは、今年で23年目を迎え、毎回多くのリハビリ/医療/介護/福祉関係者を集めている。月刊ナーシング96年8月号の褥瘡ケア特集やエクスパートナース2000年1月号2月号ではまだ知られていなかったシーティンによる褥瘡予防と再発防止、そして離床と変形防止について執筆。反響を呼んだ。最近ではにエクスパートナース2010年3月号に「ナースはこれだけは見逃さない!車椅子のシーティング」を、リハビリナース3巻2号の特集「リハビリと褥瘡」にシーティング・スペシャリストの立場から2つの章を執筆した。
94年10月にはアップルコンピュータとの提携で障害者向けの低価格販売と重度障害者用の入力支援装置、意思伝達装置の販売を中心にアップル・ディスアビリティ・センターを設立。障害者に対するコンピューターや入力支援装置そして意思伝達装置の販売とコンサルティングを行っている。
99年9月には横浜みなとみらい地区のワールドポーターズ・ショッピングセンターに「脱・介護」をテーマとして、338坪を使って自立を支援する機器を集めた「ニユーライフ・マート」をオープン。コーディネーターとして企画からテナントの選定と調整にまで関わった。
本業の傍ら、95年1月、日本初の身障者のためスポーツ情報誌「アクティブジャパン」を創刊。97年12月まで初代編集長として企画から編集までを行った 。同誌は障害者関連の雑誌としては日本で初めて一般書店で販売された雑誌であり、日本における障害者スポーツを一般に認知させた雑誌として知られている。
99年4月に働く障害者を中心に日本身体障害者社会人協会を設立。その中核である日本障害者シンクタンクとして企業や地方自治体等のコンサルティングに努めている。行政や地方自治体の様々な委員を歴任。現在は東京都スポーツ振興審議会委員、内閣府・社会還元加速プロジェクト・タスクフォース・メンバー佐賀ユニバーサルデザイン推進会議アドバイザーとして活動している。
障害者と高齢者の自立支援を目指して、車いすをはじめとする自立支援機器に関するコンサルティングとセミナーを全国で展開すると共に、ユニバーサルデザインの考えの基に、リフォームから街づくりまで様々なコンサルティングを行っている。99年に完成した日本アムウェイ本社ビルの建設では、ユニバーサルデザインを考慮したコンサルティングを行い、全てのトイレをUD化した日本初のビルとして注目を集めた。
趣味は水泳とスクーバダイビング。水泳では障害者への水泳の普及に努める傍ら選手として日本身体障害者水泳選手権、身障者国体等の大会に出場。92年バルセロナ・パラリンピックでは3種目に出場。100m平泳ぎで6位に入賞した。スクーバダイビングでは83年にライセンス取得後、850本を超える潜水キャリアを持ち、車いす使用者としては日本初のダイブマスターとして障害者や高齢者のダイビング指導に協力している。
著書に「運命じゃない! シーティングで変わる障害児の運命」(藤原書店刊)、
「愛と友情のボストン 車いすから起こす新しい風」(藤原書店刊)、
共著に「在宅 褥瘡対応マニュアル 改訂第2版」(日本医事新報社刊)
「治りにくい褥瘡へのアプローチ、予防・治療・ケアのさまざまな試み」(照林社刊)がある。